泉谷顕縦塾長の地頭力コラム
Japanese Math 「算数」で地頭を鍛える その3
2021/04/23 公開
2021/09/16 update
江戸時代には、なぜ、植木算が無かったのか?
私の研究では、
①江戸時代には「点」の概念がなかった。
②江戸時代には道路の基準点さえ定まっていなかった。
③江戸時代にはアラビア数字の「0」の概念がなかった。
④和算には、ユークリッドの「原論」にあたる体系的な幾何学の概念が無かった。
ことが原因だと考えられる。
江戸時代には、大きさを持たない「点」の概念が無かった。長さの先に「点」を想起することができなかったのである。
長さの「端」に注目することはあっても、端は「長さの端」であって、長さを端から端までの長さと意識することは無かった。目に見える「長さ」には着眼できたが、端が目に見えない「点」の概念は無かった。和算には、数で大きさのない「0」の概念や、ユークリッドの「原論」にあたる体系的な幾何学の概念が無かったからである。
「1」より小さな数は10分の1ごとに少数で表され、「分、厘、毛、糸、忽、微、纖、沙、塵、埃、・・・」とどんどん小さくなっていくが、無になる概念は無く、どんなに小さくなってもある大きさがあって名前が付いていて、数えることができると考えられていた。
徳川家康は幕府を開いた翌年の1604年から五街道の整備を始めた。
江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道である。道幅は京間で6間、約12メートル。路面は畳の厚さに砂利や砂で舗装されており、街路には、一里(4キロメートル)ごとに並木が植えられ、江戸からの距離が一目でわかるように一里塚が配置された。
このような首都を中心に街道を整備する国は、その当時の世界を見渡してもまだ稀であった。フランスでさえ、17世紀後半になってはじめてルイ14世が始めた。イギリスに至っては、さらに50年ほど遅れて、18世紀半ば過ぎから始められている。
このような江戸時代の街道整備の先進性について、当時の日本に滞在していた、博物学者のシーボルトやオランダ船の船医であったケンペル、オランダ商館のフィッセルなどが驚きをもって書物に書き残している。
しかし、江戸時代には、五街道の起点・終点となる基準点を江戸日本橋のどこにするかは定められていなかった。明治6年(1873年)になって初めて、「東京は日本橋、京都は三条大橋の中央をもって国内諸街道の元標となす」と定められた。現在でも、東京の日本橋の中央に「日本国道路元標」が設置されていて、そこが道路の長さを測る起点とされている。
「0(ゼロ)」の発見
「0」(ゼロ)は、インドで発見され、アラビアを経て、ヨーロッパに伝わり、ヨーロッパから全世界に伝わった。日本では、明治時代になって洋算を採用してから、普及した。
こうして、明治時代になって、初めて、「0」の概念や、植木算を計算する際に必要な起点・終点などの「点」の概念が明確になったので、江戸時代には「植木算」が無かったと考えられる。
最近のインドは、IT先進国に成長し、医療分野でも世界のワクチン製造の中心地となっている。やはり「0」の発明をした国だけあって、理数系の能力が高い。
日本も江戸時代には、独自の数学である「和算」を開花させ、世界トップレベルの理数系能力を示していた。プラチナム学習会でも和算のDNAである「数量感」を大切にし、日本の子供たちの理数系能力の向上に貢献できれば、幸いである。
塾長 泉谷顕縦
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