上席顧問津田克彦先生のブログ
新コラムⅡ 津田克彦の「個人の意見です!」⑴ 2025.1.17
2025/01/17 公開
2025/01/18 update
昨年の夏以来途絶えていたコラムを再開します。再開第1回目は私自身の「阪神淡路大震災」の体験についてです。
今年の1月17日で阪神淡路大震災から30年を迎えました。その後に東日本大震災や熊本地震、そして最近では昨年の能登半島地震などがあったため記憶が薄れつつあるように思いますが、私は宝塚市に在住していているため30年たった今も1995年1月17日午前5時46分の瞬間は忘れることができません。毎朝5時45分に目覚まし時計をセットしていたため枕もとのスタンドの明かりをつけた瞬間にドンという大きな音と同時に真っ暗になり、ベッドごと何mも落ちていくような感覚に襲われました。我が家は活断層から少し外れていたために室内のものは散乱しましたが家屋は壁に少し亀裂ができる程度で済みました。電気もガスも水道も止まってしまったので石油ストーブで暖を取り、子どものトランジスターラジオで情報を得ようとしましたが、ラジオ局も混乱していて「阪神間に大きな地震があった」ことぐらいしかわかりませんでした。我が家は高台にあるので大阪湾から西宮湾あたりまで見渡せるのですが、まだ暗いうちに神戸方面に火事が起こっていることが確認できました。午前6時半に自家用車で出勤しようと試みましたが数分も走らないうちに道路が倒木で通行できず、仕方なく最寄りの駅まで歩いで行ったところ電車も不通になっていました。この日は保護者懇談会もあり、何とか遅れてでも出勤しようと思いましたが手段もなく、あきらめて家の電話(このころまだ携帯電話を所持していませんでした)で事情を説明し欠勤の許可をもらいました。その後、少し経った時点で明日以降のことについて相談しようと電話をしましたが、それから何日か全く家庭の電話は通じなくなり、公衆電話だけが辛うじて繋がる状態でした。現在と違ってまだまだ町の中にはたくさんの公衆電話が設置されていましたが、どの電話も長蛇の列で何時間も並んだことを覚えています。震災直後に奇跡的に電話がつながったことが不思議です。当日の夕方には電気が復旧しました。その時点で初めてテレビ映像を観て地震の規模の大きさに驚きました。地震の情報は離れた場所の方が早く伝わります。現地はインフラの不備と対応の混乱で全体像を掴むのがずっと後になることがわかりました。たくさんの方(海外も含めて)が心配して電話をくださったようですが全く通じないために安否を気遣ってくださっていたことを後で知りました。
私は知人のご厚意で、大阪市内のホテルを約1か月借りることができたため何とか次の日から通勤することができました。二人の子どもも大阪市内の中学校と高校に通学していましたが最寄りの駅の二つ前まで電車が開通したので何とか通学することができるようになりました。ただ、ガスが約1か月復旧しなかったのでお風呂が問題になりました。そこで一日交代で私のホテルに宿泊し、二日に1回入浴できたことはありがたかったです。その後も大きな余震が何度かありました。同居の両親は不安で眠れなくなったため一か月ほど地方の宿泊施設に避難しました。自宅は家内が一人で余震に怯えながらも守っていましたがインフラや食品等の物資も十分整わない中、不安も大きかったと思います。それでも私たちはまだまだ恵まれた方です。私のご近所でも家屋の半壊や怪我をされた方、心労から後日お亡くなりになった方もおられます。そんな中でも近所の皆さんは神戸市内や淡路島などで亡くなられた方や家屋が全壊、全焼された方々に比べれば恵まれているねと言葉を交わしていました。
大阪と神戸や私の住む町宝塚とは電車で30分のところです。私は大阪市内に出勤して感じたことは、その短い距離でも地震に対する温度差が大きいということです。それは悪い意味ではなく地震を体験した者の素直な気持ちです。大阪市内も場所によっては大きく揺れたようですが、阪神高速道路の崩壊や神戸の街の惨状を映像で見て、その恐ろしさを感じているようで大地震を体験した者との温度差は仕方がないことです。私は東日本大震災などの映像を見て、地震の怖さは感じることができましたが、現地で地震に遭われ方々の真の恐怖感は想像を絶するものだったと思います。だから安易に「津波って怖いね」とは話すことができませんでした。ただ、その恐怖を同じレベルで共感できなくても温度差を乗り越える支援ができるということも知りました。私たちが大阪やその他の地域の方々からの暖かいお見舞いのお言葉や支援の物資(子どもたちもそれぞれの学校から水やコンロのガスボンベなどいろいろなものを頂戴しました)を支援していただきました。大阪在住の同僚は神戸方面まで水などの物資を大阪から歩いて(自動車は支援物資を運ぶトラック等で大渋滞)運ぶことを毎週末繰り返していました。今回、コラム再開にあたり初めに震災のことを取り上げたのは30歳以上の方には震災のことを思い出していただきたい、30歳未満の方には関西でもこのような大きな地震があったことを知っていただきたかったからです。私の震災の体験など小さなものです。もっともっと大変な思いをされた方、今でも思いをされている方がたくさんおられます。毎年1月17日を機に関西で起きた大地震について振り返り、今後の震災に対する対策や復興の教訓にしていくことが大切ではないでしょうか。
大阪の私立小学校では、各校協力して兵庫県の私立小学校に通学する子どもたちを一時的に預かる取り組みを行いました。私の通勤する学校でも数名の子どもたちを預かりました。私の学級でも1月(5年生3学期)から7月(6年生1学期)まで男児1名をクラスに迎えました。はじめはクラスの子どもたちも震災に遭った子ということで腫れ物に触れるように接していましたが、1か月も経たないうちに初めからクラスにいる同級生のようになりました。元の学校に復帰後も手紙のやり取りや、本校の体育大会や文化祭を見学に来てくれたりしました。後日、お母さまから震災当時、落ち込んでいた気持ちが少しずつ元気になっていったと伝えていただきました。このような支援もあることもお伝えしておきます。
さて、次回からのテーマは「海外引率体験記」と題して、今までに子どもたちを海外に引率して体験したエピソードや体験から得られた教訓などをお伝えできたらと思っています。
津田克彦
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上席顧問 津田克彦
元私立小学校校長、元大阪府私立小学校連合会会長。
プラチナム学習会では保護者相談、進学指導、及び、「小学校受験対策集団コース」を担当。元私立小学校校長の長年の経験を活かした、噂に左右されない本質的な指導で万全の準備を進めます。特に小学校入学後に後伸びできる子ども達の指導に努めています。
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