ぷら学日記
【京都北山校便りVol.8】「わり算の始まりは京都!?」
2021/12/21 公開
2021/12/15 update
1603年に徳川家康が江戸幕府を開いて以来、1868年までの約250年間、江戸時代は、政治、経済をはじめ、様々な思想や芸術を開花させました。
なかでも、科学の典型である物理学や化学の発展はあまり進みませんでしたが、不思議なことに数学だけが驚異的な発展を遂げました。
一家に一冊『塵劫記(じんこうき)』
数学が江戸時代の文化の一翼を担えた要因は、一家に一冊あったと言われる、江戸時代の大ベストセラー『塵劫記』吉田光由著(1627年刊行)の登場である。『塵劫記』は近世日本の数学文化の幕開けを告げるエポックメーキングな書物であった。
吉田光由は、朱印船貿易で財を成した京都の豪商角倉家の一族で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰った中国の数学書とそろばんから『塵劫記』を着想したのではないかという説もある。
ただ、大ヒットの『塵劫記』以前に刊行された日本に現存する最古の数学書は、『算用記(さんようき)』と、1622年の毛利重能の『割算書(わりざんしょ)』、百川治兵衛『諸勘分物(しょかんぶもの)』ぐらいしかない。
なかでも『割算書』の毛利重能は、京都に「割算天下一」の看板を掲げて和算塾を開いていた。毛利の出身地である武庫郡瓦林(現在の西宮市甲子園あたり)には、日本唯一の算学神社がある。
このように、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰った中国の数学書とそろばんが、京都の豪商の手に渡り、京都の和算家が最新の印刷テクノロジーで『塵劫記』を刊行し、平和な江戸時代に日本独自の数学文化としてのイノベーションを巻き起こしたと考えられる。
『割算書』の毛利重能も実は、京都の隠れキリシタンであったのではないかという説もあり、定説は定かではないが、歴史的なロマンや面白さがある。
面白い数学の問題を奉納する算額
日本のわり算が京都から始まったかどうかは、現時点で断言できないが、調べてみるのも面白い。着物の家紋や小紋柄は幾何図形で構成されており、遊びの数学文化がうかがえる。
江戸時代の日本では、面白い数学の問題を神社仏閣に算額として奉納する文化があった。現在でも、京都の八坂神社には国宝の算額が現存し、北野天満宮の絵馬堂には算額が掲額されており、いつでも見学することができる。
今年の冬休みは、全国に千数百現存すると言われている算額を探しに家族で神社仏閣巡りをしてみては?
現存する算額が一番多い岩手県一関市には算額の博物館もあります。
京都からどうやって岩手まで普及したのか?俳句の松尾芭蕉の足取りをたどったという説とか、養蚕の普及と関係があるのではないか?など諸説入り乱れています。
ぜひ、家族で探求してみてください。
塾長 泉谷顕縦
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